学校の会報が来た。
高校と大学の会報は来る。大学はこの春学校の名前が全く変わった。すでに母校はないと言うことであって、後輩たちも過去より未来を選んだのだと思う。もう先輩はいらないのである。いわゆる有名大学はそんなことはありえないだろうが。
来たのは高校である。数年前、高校の恩師が突然亡くなった。恩師を囲んだ会をやっていただけに、空洞が空いた感じで、それ以来、高校時代の話しとは少し疎遠であった。
会報に目を通すと鉄道研究会は創立40周年。自分が入ろうと思ったのは出来たばかりのところだったのか。3年間の図書委員を命じられた自分は入ることが出来なかった。そしてM先生退職話題があった。僕らは倫理社会を習っていたが、受験基本科目でないだけに、楽しい授業であった。このM先生の倫理社会、野球部顧問故K先生の漢文、全く受験役立たないN先生の世界史は好きだった。M先生の退職あたっての話から当時知りえないそんな授業の背景も見えてきたりして、思い出も単なる思い返しではないことに気づいたりする。当時は都立・県立に滑り止めそして大学での念願達成という高校であった(今は全国で10本の指に入る一流の受験校とか)
亡くなった恩師が履歴には高校名を書いた方が良い(大学が有名校でないことを思いやってれたのか)と言っていた。そう言えばある学期の成績で、クラスで一番だったのも確か高校生の時であった。これこそ今となっては全く意味のない思い出でしかない。なにより個性的な先生は多かった。受験校ながら今思えば勉強はやっているようでぜんぜん的を得て出来ていなかったと思う。明るくない?学校生活を満喫していたのかもしれない。
そうM先生の写真を見ていろいろ思い出した。会報に先生のアドレスが出ていたのでメールを出してみようと思う。IT時代だが毎日何十と来るメールマガジンはまず読まないので印刷物とのリンクは意味深いと思う。(丁度GWのはじめにも高校から35年も会っていない悪友からメールが来ていた。こちらも返信がまだである。)
以前も書いたけれど、10数年講師をしていたビデオクラブの方はこの高校の先輩であることが数年前に判った、縁は異なもの。先輩の頃は戸山ヶ原の海軍予備校だったのかしれない。
高校時代、昭和40年代後半、1970年代前半。いろいろあった。書きたいことは多い。ホームページの容量も90%くらい。有料になってしまうが、構想全体の1/10も出来ていないことえを考えると増量をしないといけないようである。
70年代の番外篇はこちらへ
http://mtomisan.my.coocan.jp/page051.html
60年代全般はこちらになります。
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