実家から持ち帰ったもの~母の昔のアルバム
1971年発行ですが、母の女学校卒業は終戦の翌年の1946年、しかし戦後直後で卒業式はできず、25年後のこの年に行われました。自分は丁度高校生でした。
このアルバムの写真にもありますが、母の卒業前の1年は学校の授業はなく、工場への勤労動員だったそうです。母の友人には風船爆弾の製作を助けた方もあったようですが、母は海軍機のフロートの製造であったようです。水上飛行機を「ゲタ履き」と言っていたとも聞きます。それが増槽(補助タンク)になり、木製飛行機になっていったようです。母の証言からも南洋の前線から撤退、そして制空k権を失い、資材不足、そして本土決戦へと歩んで行くところが推察できます。終戦の8月15日はお盆で工場を休み祖母の実家の山へ歩いて行ってそこで玉音放送を聴いたそうです。その翌日から学校へ登校した記憶があるそうです。
アルバムには郷里小田原の終戦日の空襲のことが出ています。自分も以前より聞いて知ってはいたのですが、15日だけでなく、13、14日もあったようです。どうも北関東の空襲の後、米軍機は静岡沖合に集合したようで、残った焼夷弾を小田原上空で捨てたという話もあります。終戦当日であったため記録もなく被災者の記憶もあいまいで後に調査がされたようですが、米軍には小田原空襲の記録はないとも聞きました。終戦の当日にも命を失った方がいた訳で、それが戦争と言ってしまえばそれまでですが。そうした体験を持つ親や戦後を育った同年代が今政治家のトップであったりする訳ですが、戦争を直接知る世代が少なくなり、その言葉を聞く機会も少なくなって行く状況だと思います。
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