鉄腕アトム ATOMの映画
リバイバルというか、僕らには変なという言うかどこかで見た感じもするアトムが登場している。
アトムが雑誌「少年」に登場したのは、1950年代のことであって、最初の1年は「アトム大使」としての連載だった。
あらためて言うまでもなくマンガの神様手塚治虫さんの作品である。
今回のつるんとしてすましたアトムも変わってはいるけど、アトム大使のアトムは1963年にアニメ化されたアトムともまた雰囲気が違う。
最近のアトムはCGで少しお兄さんになったようにも見えるけれど、何かアトムのお兄さんのコバルトに似ているように見えるのは自分だけだろうか。
手塚さんに敬意を表しながらもなぜこのようなアトムが必要だったのか自分にはよく判らない。
アトムとなると、いつも最終回に関わる自己犠牲の話になるけれど、もし純粋にアトムをロボットとして見てしまうと、
あらためて、アトムの中に人間を見ている訳で、自己があって、一人のアトムで見るとそうなるけれど・・・
はたして手塚さんはそこを見せたかったのかとも思ってしまう。
たしかにロボットは人のために働くのであって、アシモフによれば、ロボットは自分を守らなければならないとすると、この自己犠牲はアトムの人間性であるのかしれない。
自分はアトムの最終回まで見て、育たないアトムは永遠のアトムであったことをどこか忘れていたことに当時気づいた。
実際最終回以後の話はいろいろあるのだけれど、アトムが再生や複製されてしまえば命の話も、犠牲の話も切り離されてしまうことになる感じがしてしまう。
生命のないはずのアトムに消えてしまうことの悲しさはいったい何だったのか。
我々の生きたと・・・いうことが「思い出」であることのように。
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